匣見

顔面荒野

人間を吊るせ:βとの接触 4




Event : βとの接触 4


Name : "生者の葬式"


これは特定のタイミングで発生するイベントです。
・シナリオでβエンドを迎える
・βを殺害せずに「イベント:吊るされた男」発生
以上二つの条件を満たしたとき、このイベントを発生させてください。


描写を開始します。



* * * *



 また扉を壊してしまった。
 散らばった木っ端と蝶番の破片を手でつまみながら、また彼女に叱られることを想像して、かさねは深いため息をつく。はあ~~~~~~~。9秒にも及ぶ深さ。
「大抵、扉は部屋の中から外に出るとき押して開けるように作られているんだよ。部屋内のスペースを確保するためとか、非常時に脱出するとき人は扉を反射的に押してしまうからとか、根拠は色々あるけど」
 彼女の言葉を反芻しながらぼんやりとしていたのが失敗だった。
 本来引いて開ける扉を押し開けることに成功してしまってから、その言葉の続きを思い出した。
「もちろん例外はあるから、普段から気をつけるのが大事だよ」
 またため息。深さを3秒更新する。

 ちりとりを探しに物置に向かう。物置の場所は記憶の底に澱のようにこびりついている。そういう澱を頭から引っ張り出そうとする度、ちりちりと目の奥が火花を発する。ちりちり、ちりちり、あ、ちりとり発見。
 木屑を掃いて、不服そうに横たわる扉を近くの壁に立て掛ける。



 沼男事件の収束から1ヶ月と少しが過ぎた。

 ただし、この現在の有様を収束と呼べるのかは分からない。事態はまるで泥沼のように、深みに淀んで膠着してしまった。沼の澱に棒を突っ込んでかき混ぜてみてもいいが一時的に泥をかきあげるようなもので、つまるところは事態を引っ掻き回していたずらに人を混乱させる程度の効果しか期待でぎず、根本の解決は泥の水を全て抜いてしまうしか方法はない。そしてそれは、沼に棲む者を全て殺すことを意味するのだから。
 ともあれ、事件の大元に潜んでいた首謀者の男は拘束され、尋問を受けた。それは結局のところ、『全人類は沼男という怪物にいつの間にかすげ替わっていて、今更元に戻すことは不可能になっていた』というどうしようもない事実を改めて裏付け、どうしようもなさを一層強固にしただけだった。それを悟った飛雲の人々は事態の膠着を収束とみなし、これ以上のアクションは起こさないことを決めた。
 そういったことをこの日、わたしは疲れきった表情の占堂から聞くことになった。こうした事態においても占堂の勤務先は平常運転でいるらしく、占堂はいつも夜になってからわたしの家——わたしの住んでいる家にやってきて、こうした事件の顛末やわたしの精神のケア、ついでに多少の愚痴をわたしに話してくれていた。
「平常運転ですよ。枝の男が言う通り、客観的に見て何もこの世界は変わっていないんですから。私たちの仕事は現状維持であって、そして実際維持できてる以上はこの案件はもうおしまい。そもそも、何をしたくてもできません」
 どうにもならないんですから、と占堂は手にした黄金色の炭酸水をやけくそ気味にぐびりと飲み干した。ビーフ?と呼ぶらしい。
「枝の男の言うことを引用するのは少し腹が立ちますけどね。彼が関わった時点で沼男事件は終わってしまっていたのに、事件の犠牲になった彼が愚かにも引っ掻き回したせいで後始末が増えた。愚者と呼ぶほかありません」
「でも、あなたまでそんなすぐに仕事に復帰しなくても……」
「いいんですよ。たとえ私が二度殺されていて、その寄せ集められた死骸の成れ果てが今の自分だとしても、その全てを私は何一つ覚えていないんですから。休む理由はありません」
 客観的に見て何も変わっていないのなら、それは何も起きていないのと同義である。枝の男の発言をわたしは反芻した。占堂の顔の毛細血管が拡張していた。赤い。ビーフの影響だろうか。変色した彼女の顔を眺めていると、向こうも見つめ返してきた。無言でしばし睨み合ってからくすくすと笑いあった。
「私の心配よりもあなたの方が大事でしょう。あなたはこれからどうするの?」
「それ……は」
 答えに詰まり、目を伏せた。下に向けられた視線は今度は木製のテーブルの節と目が合った。池の波紋にも似た木材の板目は所々で何かに遮られたように渦を成す。木星の目によく似ていると思った。大昔、あの惑星を『木星』と名付けた何者かも同じことを考えていたのだろうか。こうして脱線していく思考は逃避によるものだとわたしは知っていた。答えられない罪悪感から逃れようと無意識が思考を千々に砕くのを自覚した。
「別に焦る必要はない。でもやっぱり、あなたは生きる意味ってやつを探すべきだと思いますよ。必ずしも見つける必要はないけど、探す過程が大事ですから」
「どうして」
 占堂がにっこり笑って言った。
「だって、天音は生まれたばかりですから。子どもは思春期を経て大人になるものですよ」


* *

 生きる意味とはなんだろうか。探すことが大事だと言われたので探すことにした。手始めに図書館で。
 リダに案内頼んで向かった。そこは人の数の割に奇妙に静かで、その違和感が却って落ち着かなかった。備え付けのパソコンを借り、図書を検索した。出てきた一覧を見てリダは、「新興宗教の啓発本はちょっと違うじゃないかな……」と難しい顔をした。『生きる意味がよく分かる!』と書いてあるのに、違うらしい。
 それから数日は図書館に通った。進化論の話。安楽椅子に座ったまま謎を解決する探偵の話。アパラチア山脈を歩いた話。MDMAの禁断症状に苦しむ男の話。真社会性哺乳類の話。なるべく様々なものに手を出してみた。読み進めるほど、解ったこと以上に解らないことが増えていく。一つの理解が十の不思議を産むのは、まるでねずみのようだ。あるいはわたし達。
 リダの家で借りてきた本を読んでいた。『新世界より』という題の小説だった。上巻を半ばまで終えたところでリダがわたしの座るソファに近付いて、淹れてくれたコーヒーを置いて話しかけてた。
「何かわかったことはある?」
 うん、と答えて頭の中で少し話をまとめた。
「夜になるとよく、目の端に光るものがちらちら見えてたんだ。でもそっちを見ると見えなくなって、そこには何も無い。なのに忘れた頃にまた映り始める。わたしはそれが、きっと魂とか幽霊とか呼ばれるものだと思ってたんだ。でも違ったよ」
「正体はなんだった?」
「わたしの眼球だった。桿体細胞って知ってる?」
 リダが頭の中を検索するように大きな瞳をくるりと動かした。
「光の明暗を感知する眼の細胞、だっけ。暗いところで活発になる」
「そう。それが見せる幻だった。桿体細胞は網膜の真ん中から少し離れたところに分布してるから、視線の先より視界の端の方がちょっとした明かりに気付きやすい。だから目を合わせると見えなくなるのに目を逸らすと映りだす。この細胞は色を識別できないのも正体を分かりにくくしてるんだと思う。わたしが見てたのは、かすかな光の反射だった」
「へえ……眼球に潜む幽霊か」
 リダが興味深げにメモを取り始めた。彼女の書く小説の参考にするのかもしれない。
「こういうことが分かっていくのは楽しいよ。幽霊とか神様の奇跡とか呼ばれたものが、原理を把握するほど否定されていってしまうのは、なんだか寂しいけど」
 計幸との再会を未だに願ってしまう自分が否定されていくようだから、とは口に出さない。
「ねえ、本を読むほど、生きる意味なんてものは余計に分からなくなっていくんだ。幽霊の正体は錯覚で、奇跡の正体は自然現象で、人間の正体は偶然と淘汰による進化の結果だって言うならさ、生きる意味なんてどこにも無いんじゃないかと思うんだ」
 リダは黙って続きを促した。
「生きたいと願うのは生存に有利だったからでしょ。自分の命に全く興味がない生物は真っ先に淘汰されるに決まってるんだから。これじゃあ、生きたいから生きるんじゃなくて、生きる為に生きたがってるってことになる。転倒だ。つまりそれは」
 一呼吸。
「生命に生きる意味は存在しないってことだよ」
 わたしの出した結論をリダが受け止めた。
「それは違う。それを言ったら元々すべての物事に意味なんて無いんだ。意味ってものを見出すのは生物の特権だよ。生きることに理由はなくても、意味は付属できる。意味を必要とするのは生物だけなんだから」
 石ころがそこに転がるに至った経緯はあっても、なぜ転がっているのかなんて理由は無いのと同じだろうか。物質はただそこにある。それは石も人間も、沼男も例外ではない。
「意味は存在しないんじゃなくて、客観視すると隠れてしまうだけだ。意味を見出すのは生物だけなんだから、生物としての主観を排すると見失うのは当然だ。
 読み替えるといい。問題文が難解なときは単純化するのが現代文を解く基本だ。『生きる意味』なんて大層なことじゃなくて、君が何をしたいかを考えればそれでいいんだよ」
 わたしは何をしたいんだろう。改めて自問してみたけれど、わたしの意識は何も答えてはくれない。胸のあたりには黒い靄がわだかまっている。わたしが持てる目的はあるのだろうか。

* * *

 占堂が珍しく息を切らせてわたしの住む家を訪れたのはある昼過ぎのことだった。馬肥ゆる秋とさかんにテレビが食べ物について議論していたけれど、この日はどうにも食事が億劫で、しかしさすがのわたしでも全くの無補給ではいられない。占堂やリダ達と食べるのは楽しいんだけれど、一人でいるとついサボっては叱られてしまうことが度々とあった。昼食をどうしようかとうだうだ考えていてタイミングを逃してしまっていた。なんとなく冷蔵庫のあたりをうろついているとチャイムが鳴った。
 玄関で迎えた占堂の顔はやや血管が収縮していて表情筋も強張って見えた。
「座って話しましょう。ご飯はもう食べた……?お茶を淹れるから、少し待ってて」
 そう言って占堂は彼女がこの家に買い置きしていた紅茶の袋を開け始めた。悠長な手つきなのはわざとだろう。何かをこれから告げる自分のため。何かを受け入れなければいけないわたしのため。心の準備の時間を僅かでも稼ぐため。
 占堂はわたしの向かいに座った。いつもは横に座るのに。一呼吸ついて、占堂は言った。
「的場計幸さんの遺体が発見されました」
 そのときのわたしはどんな表情だったのだろう。
「遺体はナゴッド貿易社で見つかりました。かの社が崩壊する直前にも社員の死者が多く出ていましたが、計幸さんは遺体が湾に沈み公式には発見されなかった経緯もあり、ナゴッドは彼を密やかに葬ることにしたようです。——白骨化していましたが、綺麗な棺に納められていました。本当に丁寧に」
 どんな表情だったのだろう。
「改めて葬」
「籍上の問」
「たちが費」
 そうした言葉がまだらに聞き取れたが、意識があったのはそこまでだった。わたしがうつぶせに倒れてそのまま丸一日気を失っていたと占堂から聞くのは翌日のことだ。

 わたしは計幸の遺骨を改めて火葬することを決めた。そうするべきだという占堂とリダのアドバイスもあった。身元不明死体という建前から略式にはなったが葬儀も行ってくれた。
 火葬場の人間は誰も彼もが奇妙な笑みを浮かべていた。いや、形容としては慈愛を湛えた笑み、の方が適切なのかもしれないけど、その表情を終始崩さないので、とてもそんな美しい表現をする気にはなれなかった。もしかすると生まれつきあれが真顔なのだろうか。徹底的な慈愛は火葬場そのものにも施されていた。執拗に段差が排除された設計、わざとらしいほど手入れされた中庭、数メートル間隔で配置されている観葉植物。
 神経質なまでの気遣いに気が滅入り、わたしは玉砂利の敷かれた中庭のベンチに座っていた。計幸の骨が納められた棺が大きな窯にくべられ、死体を燃やしきるまでのしばしの休憩時間だった。『死体を燃やす』とは自分でもあんまりな表現だけど、これもそんな表現が適切な気がした。いや、専用の高尚な用語があるのかもしれないけど、そして例の笑みを浮かべた彼らが何事か説明していたときにそれも解説されたかもしれないけど、笑みに耐えて聞き続ける気力がわたしに無かったためにそれを知らないだけだろう。
 陽の差す中庭でわたしは考え事をしていた。いや、これもやっぱり逃避のために、考え事をするふりをしていた。複雑な想いはやっぱり去来していたけど、むしろ他人事のようにぼんやりと思考を停止させていたように思う。
 無益に砂利の数を数えていると喪服姿の占堂がやってきた。いつも黒いスーツなのであまり違いが分からなかったけれど。いや、ちょっとだけ化粧がしっかりしてるかも。占堂は今度は隣に座った。少しの間黙って砂利数えを競っていたけど、先に口を開いたのは占堂だった。
「昔から、冬は死や終わりと関連づけられてきたそうです。樹は葉を落とし、動物は熱を奪われ、生物が静かに停止する。死ぬと肉体は冷えてゆき、産まれるものは熱を帯びる」
 批判的な物言いが続いたのは、思い返せばこれも逃避のせいかもしれない。占堂の姿が滲んでいて、ようやくわたしは泣いていたことに気付いた。
 他人事として押し付けてきた感情から、逃げられない。
 占堂がハンカチをわたしの目頭に押し当てながら静かに尋ねた。
「お葬式って、何の為にあるんだと思いますか」
 質問ではないことが分かっていたので、わたしは無言でいた。
「死んだ人間は何も感じません。人は死んだらおしまいです。あなたが以前学んだように。あなたはもしかしたらやっぱり、お坊さんの教えはまやかしで、葬儀はただの子供だましで、こんなものは無意味だと考えるのかもしれません」
 いや、わたしは分かっていた。
「私は、お葬式は遺された人間のためにあると考えています。死者と訣別するために。過去を過去として受け入れ、区切り、前に進むために。あの日、彼らにも言われたでしょう。あなたは最早死亡した天音と同一ではありません。死者の亡霊を引きずったまま歩くのは困難でしょう」
 分かっていた。
 それでも、
「歩くよ。わたしは訣別なんてしない。力持ちなのが取り柄だからね。死者がわたしに重なってくるならさ、重なり合ったまま引きずっていくよ」
 そうですか、と占堂は嘆息した。柄にもなく緊張していたらしい。安心したように、にへらと笑った。
「——神話事件に巻き込まれた人間の中には、本来の生活とはかけ離れた暮らしを余儀なくされる方も多くいます。そんな人々の社会復帰のため、新たな戸籍、そして就職や学校生活のための援助金の用意があります」

「もう大丈夫ですよ。あなたの葬式は終わりました。さて、」

「あなたのしたいことは何ですか?」

 わたしのしたいことは。

「……そうだね、知りたいな。もっともっと、色んなことを」
 占堂は頷いて、よく言えましたと頭を撫でてきた。子どもじゃないんだからやめてよと体をよじったけど、子どもですよ、と返された。
「とりあえず、産まれたばかりのあなたの名前を考えましょうか」

* * * *

 また扉を壊してしまった。
 散らばった木っ端と蝶番の破片を手でつまみながら、また彼女に叱られることを想像して、かさねは深いため息をつく。はあ~~~~~~~。9秒にも及ぶ深さ。
「大抵、扉は部屋の中から外に出るとき押して開けるように作られているんだよ。部屋内のスペースを確保するためとか、非常時に脱出するとき人は扉を反射的に押してしまうからとか、根拠は色々あるけど」
 リダの言葉を反芻しながらぼんやりとしていたのが失敗だった。
 本来引いて開ける扉を押し開けることに成功してしまってから、その言葉の続きを思い出した。
「もちろん例外はあるから、普段から気をつけるのが大事だよ」
 またため息。深さを3秒更新する。

 ちりとりを探しに物置に向かう。物置の場所は記憶の底に澱のようにこびりついている。そういう澱を頭から引っ張り出そうとする度、ちりちりと目の奥が火花を発する。ちりちり、ちりちり、あ、ちりとり発見。
 木屑を掃いて、不服そうに横たわる扉を近くの壁に立て掛ける。あの日、わたし天音が産まれて、暗闇から脱出したときも、こんな風に扉を壊したことを思い出す。開けた視界に光が突き刺さって、それは苦しかったけれど、確かに目的は見えていた。
 時計を見ると少しばかり時間が押している。急がなくては入学式から遅刻しかねない。行きがけに天気予報をちらりと確認する。今日は一日快晴だと告げている。昼には陽が地表を暖め、夜には星が道を照らす、何でもない一日になるのだろう。
 ドアノブに手をかけ、かさねは扉を開け放つ。外へ一歩踏み出して外気を吸い込む。肺をわずかに刺す冷気はまだ冬の残り香を感じさせるが、もう上着は必要ないだろう。ひとひらの花びらが風に飛ばされて踊っている。

 桜の満開が近いらしい。