匣見

顔面荒野

日記:不利益

不利益


 例えば、今から僕が君をぶんなぐるとする。すると君は何を感じるだろうか。僕にはそれが分からないのだ、と男は言うのだ。
 俺の、この際俺でも僕でも私でも大したことではないのだが、冒頭において男の一人称を僕として使ってしまったので、まあ分かりやすくする為に俺のことを俺と呼ぶと定めておく。さて、俺の前にはHPが94%減った男がいる。男のIDもまたこの際重要ではないので、終始男と表現するに留めておく。その男が、見ず知らずの俺に向かって、サプレッサーの付いた俺のサブマシンガンで僕の脚を撃ってくれ、と頼むのだ。そして、そののちに僕は負傷して床に転がるだろうから、応急手当を施してくれないかと続けた。
 そんな奇矯な依頼の意図は言うまでもない。そうした一連の過程を経ることで男のHPは50%に回復するからである。応急手当の定義とは負傷に対し簡易な治療を施すことにある。すなわち、負傷しなければ応急手当は施せない。たとえ男の脇腹があちらへ、右耳はそちらへと吹き飛んでしまっていようが、男は動きにさしたる支障もなく、未だ作戦にとって十分なパフォーマンスを発揮している。身動きが取れぬほどの傷を負うことが負傷であると古来よりの常識として定められている以上、男は傷を負っていても負傷ではなく、自然、男に応急手当は行えない。男のHPが6%であってもだ。これで現実的現実を気取っているのだからなんだか滑稽だが、とはいえHPが6%と50%では大きな開きがあるのもまた自明なので、あえて更なる傷を負い、意図して負傷しただちに床に無様に転がってから応急手当を施す方が、阿呆らしくも戦略上有利に働くのである。
 こんなことはこの戦場に来る人間ならば誰もが知る基本戦術なのだが、知ると行うは6と50よりも深い隔たりが鎮座する。これに至っては最早自明の理以前の、つまり叡智の炎が俺たち人類を照らす以前の、自我らしい自我が未だ暗い闇に包まれていた原始の時代においてすら備わっている機構が行うの邪魔をする。『怪我をすると痛い』という機構だ。脚をもげば虫だってのたうつ。どんな瀕死においてもそれ以上の苦痛をあえて望む兵士はやはり少ない。HPが6%ならば1発銃弾を腹が顔に浴びるだけで即死でき、即死ならば苦痛はなく、また次のラウンドになれば俺であり僕であり私は復活するのだから。
 そして勿論、戦略的であれば何でもできるのなら、例えばジャンケンという競技は試合の度に対戦相手の腹に蹴りをぶちかまして失神させればよろしい。力なく開いたパーに声高に勝利を宣言すればチョキ軍の優勢は確実となる。俺たちがそうしない理由の説明まではいくらなんでも不要だろう。
 だから、男の依頼には少しばかり戸惑った。いいのか、と確認するが、男は苛ついたように俺を急かすのみである。まあ、戸惑いはすれど同様のことが全く無かった訳でもない。俺は彼を負傷に追い込み一見不毛なマッチポンプを済ませ、臨戦態勢に戻る。
 この一分後、侵入を許したテロリストに俺たちが撃ち殺されるまでの展開は割愛する。ううむ許せぬと烏合のチームメイトは猛り、今度は俺たちが、テロリストの立てこもる某国某州某所の奴らの拠点を包囲し突入する作戦を即座に立てた。
 某レゴン州に向かう装甲車の中で俺は男に尋ねてみる。なぜ躊躇いなく自傷を決行したのか。そなりの苦痛があったはずだが平気なのか。それほど訓練されているのか、或いはメンヘラなのか。
 男は顎に手を当て暫し上の方を見つめる。俺の質問を吟味しているようで、ややあって口を開いた。
「例えば、今から僕が君をぶんなぐるとする。すると君は何を感じるだろうか」
 それは勿論、痛い。阿呆のように俺は答える。
「じゃあ、痛いとき何を感じるかな」
 痛いは痛いではないのかと思うがそれでは不満なのだろうか、と俺は困惑する。ひょっとして男は阿呆なのかと眉をひそめたが、男も同じ顔つきで俺を眺めていた。不毛にも阿呆同士が見つめ合い、先に折れた男が諦めたように解説しだす。
「痛いのは嫌だ。そうだろう」
 やはり阿呆は向こうさんの方らしい。
「まあ聞けよ。痛い、と痛いのは嫌だ、は別物だってことだ。そして僕には後者が欠如している。だからより戦略的な方法を選べた。それだけしゃないのか」
 つまり男は痛みを感じないということだろうかと得心しかけるが、再び男が阿呆を眺め始めたので、俺は更なる解釈を試みる。つまりあれか、痛いという事実は同様に感じるが、その苦痛が男の心を動かす訳ではないのか。
「そう。ただし損得勘定はできる。痛みは普通不利益な何かのサインだから、痛みを感じたら原因を排除する反射は備わっている。でも、僕にとってそこにあるのは、苦痛が存在しているなぁ、と額縁の中を覗く機能だけなんだ」
 じゃあ今から俺が男をぶんなぐっても別にどうとも思わないのか、なるほど。という訳で試しにぶんなぐってみたら普通に殴り返される。話が違うぞ。
「損得は勘定できると、はぁ、言っただろ……」
 これは他のチームメイトに止められるまで互いをボコボコにし合ったのちの台詞である。苦痛が苦痛でないからといってサンドバッグにされるがままになる形質は淘汰されて然るべきであると、そういうことらしい。
「別にそれほど珍しいことでもないだろう。君だって口のききかたを知らない生意気な後輩に、内心さほど怒っていなくても今後の為に制裁を加えこととかあるはずだ。想起された怒りの感情は、例えば威嚇の表情や対象への攻撃衝動のトリガーになるけど、怒りの形質が実装されるに至った理由は明白だ。生存に有利だったから。つまりグェ」
 装甲車が石か何かを踏んで大きく揺れ、男は無理に言葉を区切られる。本当に苦痛を感じないのか。
「つまり、結果的に威嚇を行えていれば、実際の内面に怒りが伴っているかは問題ではない。問題ではないので、僕はそうなっふぁ」
 振動で舌を噛んでいたらしい。
 クオリアの欠如、などと賢しらな用語を持ち出す話ですらないのだろう。そんな哲学をお呼び致さなくとも、こんな男が居るということは、どこかにも同様の男ないしは女がいるのだろうし、それが許されるならば人類はいずれそのように変遷するだけのことだろうから。ヒトを完成品として提出した神は、なおも変化を試みる人間の形質を赦すのか。ダーウィンの腹次第でしかないこれは俺には願うにも荷が重すぎる。
 せいぜいPS4のコンセントが突然抜かれないことを祈るばかりだ。




2669文字 2時間強